人生最後の夢(短編小説)

 彼の命は、残された数日を静かに刻んでいた。病室のベッドに横たわりながら、彼の脳裏には、これまでの人生の移ろいが次々と浮かんでは消えていった。小学校で勉強に励み、努力を重ねて一流大学に進学。卒業後は名の知れた大企業に入社し、役員にまで昇進した。すべてが順風満帆だった。しかし、数年前に妻を亡くし、子どももいない。親戚もほとんどおらず、晩年は孤独な日々を過ごしていた。そして今、自分自身もこの世を去ろうとしている。

 彼は、自らの人生がまるで一片の花のように儚く、美しく、そして散っていくものだと感じていた。「とうとう自分も土に還るのか」——そんな思いが胸をよぎる。どれほど努力して築いたものも、あの時の感情も、すべては移ろいゆく。人生の無常を痛感しながら、彼の心にはただ、お釈迦様の言葉だけが深く染み入っていた。

 彼は、人生最後の夢を見ていた。そこには、部長になりたての自分がいた。あの頃は仕事に情熱を注ぎ、事業部長を目指してライバルと競い合い、小さな派閥を築いては一国一城の主のように振る舞っていた。自分に逆らう部下には容赦なく人事の鉄槌を下し、ライバルを蹴落とすように仕向けていた。夢の中で彼は、そんな部長時代の最も醜い自分にタイムスリップしていた。今思えば、あの時に鉄拳を加えた部下や、敵視していたライバルの方が、正しかったのかもしれない。彼は、ただ階段を一段でも上り、他人より優位に立つことだけを生きがいとしていた。しかし、出世の限界が見え始め、出向の話が現実味を帯びてきた頃、かつての情熱に満ちた会社の姿は、どこか遠いものに変わっていた。後輩たちがかつての自分のように、意地悪く出世競争に邁進する姿を見ると、恥ずかしさが込み上げてきた。そんなある日、彼が嫌っていた部下が仕事の相談に訪れた。彼は怒りをぶつけ、その数ヶ月後にその部下を関連会社へ出向させた。しかし今の彼は、その部下に優しく接し、出向も取り消したいと思っていた。それでも、口は気持ちに反して怒りの言葉を吐いてしまう。

 過去は変えられない——その瞬間、彼は病室の自分に戻っていた。そういえば、会社の同僚ともここ数年会っていない。年賀状も、かつては数百枚やり取りしていたが、今では十数枚にまで減っていた。一年前、会社の前を通ったとき、出てきた社員は誰も知らない顔だった。一人は役職者で、もう一人はその部下らしい。社会人らしく、上司と部下の会話をしていたが、そこに彼の知る人間はもういなかった。

 再び彼はうとうとし始め、大学時代の自分にたどり着いた。キャンパスにはかつての仲間がいて、マドンナだったA子さんも若く清楚な姿で誰かと話していた。若い自分もそこにいた。しかし夢の中で、彼は「あいつも、あいつも、もう亡くなっている」と思ってしまった。

A子さんも今では若い頃とは見る影もない年老いた女性になっている。時は無情にも過ぎ去る。あの頃は、大学時代の友情が永遠に続くと信じていた。

人生がずっと若々しく続くという、根拠のない夢に包まれていた。今思えば、世の中を甘く見た傲慢な未来像だった。そんな友人も社会人になって、人間社会の厳しさの洗礼を受けて、あの頃の面影などみじんもない醜態な姿に変貌してしまった。だからこそ、大人はいつの時代も若者の理想を「青臭い」と一蹴するのだろう。

 人生は、日々退屈に見えても、確実に年老いていく。そして、やがて戻れないほどに老いて、人は土に還る。そう思った瞬間、彼の頭は真っ白になり、時間が止まった。




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