独身男のタイムスリップ恋愛(短編小説)
健太、三十歳、独身。システム開発会社で働く、ごく平凡なサラリーマンだ。平凡と言えば聞こえはいいが、その実態は、女性との縁が全くない「モテない男」そのものだった。会社の飲み会では、女性社員の輪に入れず、壁際でハイボールの氷を意味もなくかき混ぜるのが定位置。勇気を振り絞って話しかけても、「あ、はい」「そうなんですね」という短い相槌のあと、会話は静かに終わりを告げる。女性たちが向ける笑顔は、愛想笑いか、あるいは憐れみのそれ。健太は、自分が彼女たちの世界の「背景」でしかないことを、痛いほど理解していた。
ある週末、健太は気分転換に浅草を訪れた。そこで、古道具屋の軒先に置かれた一つの懐中時計に目が留まった。店主の老人が「面白いものだろう。大正時代の職人の作だよ」と声をかけてくる。健太は、ほんの少しの高揚感を覚え、それを購入した。
アパートに帰り、早速懐中時計をいじってみる。突然、時計がカッとまばゆい光を放った。同時に強烈なめまいに襲われ、健太の意識は闇に吸い込まれた。
目覚めた時、健太は知らない路地裏に倒れていた。体を起こして周囲を見渡すと、景色は一変していた。アスファルトの道はなく、土がむき出しの地面。行き交う人々は、着物や袴を身につけ、男は皆、帽子をかぶっている。遠くからは、路面電車がチンチンと鳴らす警笛と、威勢のいい呼び声が聞こえてくる。
呆然と立ち尽くす健太の前に、荷車を引いた男が通りかかった。「にいさん、道端で寝てちゃ危ねえぜ」。その言葉も、服装も、町の匂いも、全てが現実だと告げていた。どうやら、本当に過去に来てしまったらしい。時計の文字盤は、大正十二年を指していた。
途方に暮れた健太は、腹の虫を鳴らしながらとぼとぼと歩き続けた。そんな彼に声をかけたのは、一軒の八百屋の店先で大根を並べていた娘だった。
「あの…もしよかったら、これどうぞ」。
そう言って、ふかしたての薩摩芋を差し出してくれた。お千代と名乗ったその娘は、日に焼けた健康的な頬と、一点の曇りもない澄んだ瞳を持っていた。
健太は事情を話すわけにもいかず、「旅の途中で無一文になってしまった」と嘘をついた。お千代の父親である店主の清兵衛は、健太の人の良さそうな顔を見て、「行く当てがないなら、うちで働きな」と、住み込みで働くことを許してくれた。
それから、健太の人生は一変した。現代の女性を前にすると、途端に口ごもってしまう彼が、お千代とはごく自然に話すことができた。
「お千代さん、その簪、綺麗だね」
健太が褒めると、お千代は「えっ…」と顔を真っ赤にして俯き、「あ、ありがとう…ございます」と、か細い声で答える。その反応が、健太には新鮮で、愛おしくてたまらなかった。現代で同じことを言えば、「あざーす」「てか、そういうのいいんで」と一蹴されるのが関の山だ。
健太は、生まれて初めて女性から純粋な好意と尊敬を寄せられていることを感じていた。それは、彼の乾ききった心を満たす、甘露のようだった。
休みの日に二人で浅草十二階(凌雲閣)に登ったり、活動写真(映画)を観に行ったりもした。人混みではぐれないようにと、お千代が健太の着物の袖をそっと掴む。そのささやかな触れ合いだけで、健太の心臓は張り裂けそうになるほどの喜びに満たされた。
いつしか二人は恋仲になり、健太はこの時代で、お千代と共に生きていくことを決意した。清兵衛も、健太の真面目な働きぶりを認め、二人の結婚を許してくれた。婚礼の日は、一週間後と決まった。
健太は、幸福の絶頂にいた。生まれて三十年間、ずっと「背景」だった自分が、誰かの人生の「主役」になれたのだ。愛する人がいて、その人と未来を共にできる。これ以上の幸せがあるだろうか。
婚礼を明日に控えた晩、その時だった。懐に入れていた懐中時計がカッとまばゆい光を放った。健太の体はぐにゃりと歪むような感覚に襲われる。遠のく意識の中で、「健太さん!」とお千代の叫び声が聞こえた気がした。
気がつくと、健太は見慣れた自分のアパートの、フローリングの床の上に倒れていた。窓から差し込む西日が、部屋をオレンジ色に染めている。壁の時計は、あの日、古道具屋から帰ってきた時刻を指していた。服装も、会社用のくたびれたスーツのままだ。
「夢…だったのか?」
あまりにも鮮明で、幸せな夢。しかし、頬を伝う一筋の涙が、それがただの夢ではなかったと物語っていた。その時、、スマートフォンが震えた。会社の同僚からのメッセージだ。『二次会、来ないのか? 盛り上がってるぞ』。
健太は画面を消し、窓の外に目を向けた。そびえ立つ灰色のビル群。ひっきりなしに行き交う自動車の群れ。ここが、自分のいるべき現実。お千代のいない、灰色の現実。
健太の人生で最も輝いていた時間は、幻のように過ぎ去り、彼は再び、女友達が一人もいない、孤独な日常へと引き戻されたのだった。ただ、その胸には、薩摩芋のように温かく、そして痛いほどの切なさを伴う、愛しい人の記憶だけが、深く刻み込まれていた。
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