人生のいたずら(学歴編)(短編小説)
鈴木亮平が東京大学の赤門をくぐった日、彼の未来は輝かしい光で満ちているように思えた。地方の小さな町工場で働く両親のもと、ただひたすら勉強に打ち込み、手に入れた最高の学歴。卒業後、日本を代表する大手総合電機メーカー「帝光電機」に入社した時、亮平は自分がこの国の産業を動かすエリートの一員になったのだと確信していた。
社会人5年目、高校大学時代の友人の集まりで、亮平は田中健太と再会した。日本大学出身の健太は、裕福な家庭に育ったお坊ちゃんという印象しかなかった。
「健太は今、何してるんだ?」
ハイボールのグラスを傾けながら、亮平は聞いた。その口調には、国内最大手のメーカーで働く者としての自負が滲んでいた。
「小さな中小企業だよ。太田精機。相変わらず、ちまちま部品作ってる。君の会社からも厳しい納期と品質の要求を突き付けられ、昨日は徹夜でなんとか納品にまで漕ぎつけたんだ」
健太はあっけらかんと笑った。精密部品を作る町工場。亮平の頭には、油の匂いが染みついた薄暗い作業場のイメージが浮かんだ。
「俺は今、東南アジア向けの白物家電の開発チームにいるんだ。年間数百万台を売るビジネスだから、責任も大きいよ」
亮平がそう語ると、周りの友人たちは「さすが東大卒は違うな」と感嘆の声を上げた。その賞賛の輪の中心で、亮平は優越感に浸っていた。健太は、そんな亮平を黙って見て、楽しそうに笑っているだけだった。亮平にはそれが、自分の土俵で勝負できない者の負け惜しみに見えた。
それから20年の歳月が流れた。世界は、亮平が想像していたよりも遥かに早いスピードで姿を変えていた。
帝光電機という巨大な船は、時代の荒波の中でゆっくりと傾き始めていた。かつて世界を席巻したテレビやオーディオ事業は、新興国メーカーとの価格競争に敗れ、見る影もない。亮平が心血を注いだ家電部門も、IoTやAIといった新しい波に乗り遅れ、大規模なリストラの対象となった。
亮平自身も、希望していなかった子会社への出向を命じられた。給料は下がり、仕事はかつての栄光を知る者にとっては屈辱的なルーティンワークばかり。社内には諦めの空気が漂い、優秀な同期は外資系コンサルや新興のIT企業へと次々に去っていった。自分が信じてきた「安定」という名の船は、ただ沈没を待つだけの泥舟に変わり果てていた。
そんなある日、亮平は高校の同級会で健太に久しぶりにあった。健太はメガバンクで融資を担当する友人と話していた。しかし、友人は話し方は非情に丁寧で腰がひくかった。どうも健太の会社の融資の話をしているようだった。健太の肩書は「株式会社IX・プレシジョン(旧:太田精機) 取締役」に出世していた。
健太の会社は、往年の町工場ではなく、EV向けの特殊センサー部品と半導体製造装置の心臓部を担う超精密部品を製造することに成功し、GAFAMを筆頭とする企業から高い評価を受けているらしい。取引先はシリコンバレーの新興企業から、欧州の巨大自動車メーカーまでが名を連ね、数年後には株式上場も視野に入れていた。以前のラフな雰囲気は影を潜め、仕立ての良いスーツを着こなした姿は、自信に満ち者の風格を漂わせていた。
亮平はさっそく健太に声をかけた。
健太は昔と変わらない人懐っこい声が聞こえてきた
「よお、亮平。久しぶりだな。元気だったか?」
「……ああ。健太こそ、すごいな。」
亮平が絞り出した言葉は、ひどくかすれていた。
「いやいや、運が良かっただけだよ。時代の波に乗れたっていうかさ。でも、帝光電機みたいな大企業でずっと頑張ってるお前の方がすごいよ」
その言葉に、悪意がないことは分かっていた。だが、今の亮平には、その労いが何よりも惨めに響いた。
「実は今度、アメリカに新しい研究開発拠点を建てるんだ。向こうの大学と提携して、最先端の技術を取り入れたくてね。うちの会社も最近は一流大学の学生がちらほら入社するようになったが、亮平みたいに優秀で、グローバルな視点を持ってるやつが来てくれたら心強いんだけどなあ」
スカウトのつもりではない、ただの世間話。しかし、その一言が、亮平が必死に守ってきた最後のプライドを粉々に打ち砕いた。東大に入り、大企業に就職し、実際、自分は、世間一般の価値観に陶酔し、自分は選ばれた人間だとひらすら信じてきた。
その自分が、今や見下していたはずの男から、同情にも似た言葉をかけられている。
亮平は一人同窓会会場を抜け出し、冷たい夜風が吹き抜けるデッキに一人で佇んだ。東京の夜景が、滲んで見えた。人生の勝敗は、入口の看板の大きさで決まるわけじゃない。学歴とは、努力とは、一体何だったのか。自分は世間で言われる成功の方程式に向かって進んできたはずなのに。。。
しかし、自分が夢見たドリームを実現したのは、自分ではなく、一見負け組の人生を歩んでいると見下いしていた男だった。

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