短編小説「創業家社長の追放」
加賀谷ホールディングスは、創業者・加賀谷正治が創業家の娘婿として事業を拡大し、一部上場企業へと育て上げた会社である。精密部品の製造を主力とし、堅実な経営で知られていた。しかし、その堅実さの裏返しとして、現場の声を吸い上げる“番頭”の存在が極めて大きい企業でもあった。
次の社長・加賀谷洋は、創業家の長男として大学卒業後に海外で経験を積み、五年前に帰国して社長に就任した。温厚な性格であるが、小さい頃から裕福な家庭で育ったせいか浮世離れしたところがあった。それが経営面での弱さとなり、会社の業績は何とか横ばいを這いつくばっていた。
正治は自分が亡くなる前に、専務・矢島義郎に教育係兼貢献になってもらう事を打診し、矢島も快く受け取った。高卒で入社し、叩き上げで工場長、事業部長を歴任した男だ。豪放磊落で口は悪いが面倒見がよく、「矢島のアニキ」と慕う社員も多い。だが、洋のコメンテータまがいの机上の判断に否がる事も少なく、取締役会でさえ洋の提案を「机上の空論だ」と切り捨てることもしばしばであった。そうしているうちに矢島は洋を見限るように、次第に会社の意思決定を自らの都合へとねじ曲げるようになった。
いつしか「専務の許可は取ったのか?」が社内の合言葉のようになり、社長への報告は専務を経由するのが当然となった。時には、社長に知らせぬまま取締役会の決議が進むことすらあった。稟議書には社長の印の前に専務の巨大な捺印が押され、社長が「もう少し検討を」と言えば、矢島は「洋の考えは甘すぎる」と笑い飛ばした。
就任当初こそ創業者を慕う腹心たちで構成されていた取締役会も、年度が変わるごとに矢島は自らの子飼いを次々と役員候補に推薦し、創業期からの役員たちは退任に追い込まれていった。いつしか会議で洋が発言しても賛同の声は弱く、最終的には矢島の案が“全会一致”で通るようになった。
ある夜、洋は父・正治の旧書斎に一人座っていた。壁には創業期の写真が飾られ、若き日の父と、壮年の矢島が肩を並べて写っている。矢島は、父にとって豊臣秀吉のような番頭であった。
正治は創業家の一人娘の婿として迎えられ、東京の名門国立大学機械工学科を卒業後、三菱重工で十数年設計エンジニアとして活躍していた。縁談は教授からの相談であり、会社を飛躍させるには技術力の向上と国立大学との共同研究が必要と考えられたためだった。
一方の矢島は、正治が事業部長であった頃に工員として入社した。仕事は真面目で徹夜もいとわず、作業方法や製品改良への視点も鋭い。その才覚を買われて出世を重ね、正治は周囲の反対を押し切って矢島に製造部門のトップである事業部長職を任せた。高卒であることを理由に役員との兼務は認められなかったが、二年後、新製品の成功で会社が飛躍すると、矢島は役員に昇格した。その時、反対する者は誰もいなかった。こうして矢島は順調に専務へと上り詰め、現在に至るのである。
「父さん……俺は、間違っているのか」
洋が独りつぶやいたその時、秘書からメッセージが届いた。
“専務、緊急の役員会招集。議題:社長交代案
(理由:経営判断の遅さおよび責任の所在不明確を指摘)”
洋は唇をかんだ。怒りではなく、深い哀しみだった。
翌日の役員会議室。
矢島は分厚い資料を机に叩きつけた。
「洋、あんたはいい人だ。だが社長の器じゃない。会社を守るためだ」
役員たちは静まり返り、反論する気配はなかった。
洋は静かに立ち上がり、深く頭を下げた。
「……わかりました。会社のためなら、私は退きます。ただし一つだけ、お願いがあります」
矢島は眉をひそめた。
「この会社の社員は、父が命を懸けて守ってきた家族同然の存在です。どうか、彼らを……裏切らないでください」
しかし、その言葉に役員たちは薄ら笑いを浮かべた。こうして洋は退任した。
洋はその後、都内のマンションで財産管理会社を設立した。追放されたとはいえ、なお十数%の株式を保有しており、時価総額は数百億円にのぼった。洋は資産分散を兼ねて、持株の半分を銀行に売却することを検討していた。
ある朝、新聞には加賀谷ホールディングスの増収増益の記事が載っていた。社長交代がその要因として挙げられ、新社長・矢島の強気のコメントが大きく扱われていた。洋は悔しさをにじませながらも涙をこぼした。しかし同時に、「会社のためには、矢島の判断は間違っていなかったのかもしれない」と思い至り、自分の経営者としての力量のなさを思い知らされるのであった。そして、本当意味で加賀谷ホールディングスと別れを告げるべく。加賀屋の株式すべてを銀行と取引先に売却する決意を固めた。

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