短編小節 隣の芝生
彼は平凡な二流大学を卒業し、二流の会社に就職した。人一倍正義感が強く、何事にも真面目に取り組む。しかし、皮肉にも結果が伴わない。その実直さゆえに、彼は結果の出ない自分を過剰に責め、自己評価をどん底まで落としていた。客観的に見れば、彼は決して無能ではない。見方によっては世間一般の「中からやや上」に位置するだろう。しかし、彼は絶対的な自己価値を認められず、常に他人と比較しては、エリート層や成功者、自分より先に出世した同僚を羨んでは「自分は最低だ」という劣等感に苛まれていた。
「自分ばかりが貧乏くじを引いている」そんな思考はいつしか負け意識と不安の塊となり、彼の心を蝕んだ。全てを否定的に捉える「うつ状態」に陥った彼はある日、絶望の淵を彷徨うように公園の小さな森を歩いていた。池の水面に映る、不機嫌な自分の顔。その背後に、いつの間にか仙人のような老人が立っていた。「君の悩みを解決してあげよう。君のエネルギーを三段階上げてやろう」老人がそう告げた瞬間、景色が歪んだ。
第一の試練:富
気がつくと、三年の月日が流れていた。彼はネットビジネスで成功を収めた富裕層になっていた。 周囲にはポジティブな成功者ばかりが集まり、かつての友人のような愚痴や悪口を言う者はいない。だが、そこは安息の地ではなかった。慢心すれば競合に追い抜かれ、一瞬の油断が転落に繋がる。経営の重圧に心は休まる暇もなく、そのストレスを埋めるために月百万円の愛人を囲い、豪華な旅行を繰り返したが、虚しさは募るばかりだった。 タワーマンションの自室に帰っても、妻とは仮面夫婦。心の通わない「すました生活」があるだけだ。世間からは夢のような生活に見えるだろうが、実態は孤独な砂漠を一人歩いているのと変わらなかった。
第二の試練:名誉
次に彼は、会社の出世頭となっていた。だが、そこはアスリートのような仕事量と努力を強いられる修羅場だった。三百六十五日、ライバルを蹴落とすことだけを考え、脱落する恐怖に怯える日々。 その予感は最悪の形で当たった。次期役員に選ばれたのは、彼より能力の低い、専務の「太鼓持ち」だった。情実人事という社内政治の敗北。彼は不条理な世の仕組みを叩きつけられ、無能な上役の部下となった末に、子会社へ放出された。役員待遇とはいえ、魂が抜けたような抜け殻の人生だった。
第三の試練:愛
最後に、彼はスポーツ界の花形選手となり、誰もが羨む美女を妻にした。 しかし、美貌の妻は異常なまでに自意識が強く、彼は常に彼女の我儘に振り回された。家庭は安らぎの場ではなく、美しき猛獣が棲まう檻となった。そんな中、彼が心惹かれたのは、協会の地味な事務員だった。お世辞にも美人とは言えないが、気立ての良さに心が洗われた。見栄と体裁で選んだ幸せの虚飾を悟った彼は、多額の慰謝料を払い、自分を偽らない平穏な愛を選び直した。
本来の自分に戻る
「結局のところ、自分を苦しめていたのは自分の心の持ち方だったんだ」 ようやく彼は気づいた。心のあり方を変えない限り、どんな環境でもそこは地獄になる。「隣の芝生は青く見えていたが、入ってみればどこも同じ土だった」 そう呟いた瞬間、老人は彼を元の場所へと戻した。 静かな公園、池の水面。元の冴えない自分に戻ったが、その表情は以前と違っていた。彼は自分自身を取り戻したように、ささやかで平穏な生活の中へと、力強く一歩を踏み出した。
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