(音楽評論)大瀧詠一にとっての「A Long Vacation」 その2
〇崖っぷちのアルバム
「A Long
Vacation」前の大瀧詠一はまさに崖っぷちであった。それは福生スタジオで制作したナイアガラ作品のセールスがさんざんで店じまいする一方で、気が付けば、かつての仲間(細野晴臣、松本隆、山下達郎、シャネルズ、そしてティン・パン・がレー
等を通じた松任谷由美など)がメジャーに昇格していた。
まるで説教がましい売れないお笑い芸人が、次々と説教をしていた後輩に追い抜かれていくように、心情的に追い込まれていった。そしてこれで駄目なら引退まで覚悟した崖っぷちの作品が「A
Long Vacation」だという皮肉である。
実際、はっぴいえんどの作品でも、大瀧の作品がメンバーの中で最も輝いていた。それにもかかわらず、どんなに頑張っても結果が出ない現状は、本人にとって相当つらいものであった事は想像に難くない。
〇松本隆の歌詞に助けられた
このアルバムが売れたのは松本隆の秀逸な歌詞の世界感によるものは否定できない。
なぜ、そのようなこと断言できるのかというと、「A
LONG VACATION 40th Anniversary Edition」で、セッション音源をオプションにつけているのだが、この演奏は本番とほぼ変わらない。しかし、作品の魅力は本リリース版とは比べ物にならないほど低い。おそらくであるが、このアルバムが他の作詞家なら間違いなく、大ヒットはおぼつかなかったであろうことを示唆しているのだ。
その中でも「スピーチバルーン」「恋するカレン」の原曲は、スラップスティックが「デッキ・チェア」、「浜辺のジュリエット」で提供しているが、これら作品は正直いって、凡庸の域を超えていない。
「A Long
Vacation」の作品群は、松本隆の世界観によって、作品の魅力を大きく引き伸ばしたことを裏付ける貴重な資料でもある。
当然だが、大瀧詠一自身がこのことを一番よく知っていたはずである。つまり、あのような音源は急死により、彼の音源ライブラリーが手つかずで残っていたからの結果にすぎず、もし彼が長い病床の上で亡くなっていたら、それら音源を破棄していたことは想像に難くない。
〇ナイアガラサウンドの効果
大瀧詠一は、「A
Long Vacation」以前の作品も「A Long Vacation」と作品も質という点では同一であるという発言をしている。この意味は、先ほどの「A
Long Vacation」のセッション音源からも察することができる。
その一方、ロングバケーション以降のナイアガラサウンドは非常に評価が高い。この違いを紐解くと。聞き手はまず、松本隆の歌詞の世界に陶酔していく。そして、その陶酔から醒めようとすると、別の音が耳の中で踊り始めるのである。つまるところ、彼の作品はリズム音から始まって、様々な音を立体的に取り込んでいるのが特徴だ。リスナーの興味はそちらに移って、聞けば聞くほど新しい音の発見にのめり込んでしまうループを引き起してしまうのだ。
ただ、こういった凝りに凝ったナイアガラサウンドを差し引いても、「A
Long Vacation」の松本隆の歌詞はかなりと言っていいほど秀悦で、他の歌手が単純にカバーしても、十分に名作であることには変わりはない。
〇大瀧と松本の対称性
はっぴいえんどは、大瀧を除けばみな東京の高級エリア出身で、ある意味裕福な家庭の子息となる。しかしながら、細野と松本の作品では、都会と都会の感性が重なり合って世界観の拡がりに乏しい。その一方、大瀧の場合、東北出身の泥臭さと松本の都会的な感性が重なりあり、広範な世界観を作りだすことに成功している。お洒落なサウンドだが、不思議と日本人の心の奥底に流れている日本歌謡が潜んでいるのだ。実際、「A
Long Vacation」のファン層はイケイケのサーファーやおしゃれそうなタイプではない。どちらかというと、音楽一つとってもこだわりの強そうなタイプの中年層が多い。
彼の作品は、単刀直入言えば、松本隆との共作以外は、まともと言える作品はほとんどない。だからこそ、大瀧詠一は松本隆の影に悩まされてしまう。
ただ一つ抵抗できたのは、「熱き心に」であろう。この作品で、大瀧詠一は松本隆からの脱却を何とか図れたといっても過言ではない。しかし、この作品で、彼の音楽人生はほぼ終了してしまう。
〇傑作は計算づくでは作れるものではない。
結構、辛辣なことを書いているが、この作品は間違いなく、日本歌謡の中で群を抜いた傑作であることには違いない。しかし、私が思うにこのような傑作は計算づくでは作れない。崖っぷちにまで追い込まれて、自分の力を出し切るところまで出し切ったがゆえの傑作である。
でも、こういった事は他のミュージシャンも同じで、傑作は何らかの勢いに押されて出来上がるもので、計算づくではできるものはない。
こういう事を考えていくと、物事とは日に皮肉で成り立っているのかもしれない。
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