オフコース(小田和正と鈴木康博)

  オフコースを語る上では、二人が高学歴者であったこと。本来な学歴エリートとして社会に出るはずの二人が実力社会の歌で生きていく事を選ぶが、インテリがゆえの暗さもあり、下積み時代は暗く,辛く長いものであった。その頃の楽曲はそういった鬱積した哀愁が反映されているだけでなく、メジャーになるには致命的な非常に弱々しい繊細さと雰囲気を漂わせていた。しかし、一点も曇りの透明感のある心清らかな男女の情景を感じさせる楽曲は、唯一無二であり、それにメロディの質の高さが加わり、その後の5人編成になって演奏に力強さが加わったことで、多くのファンを掴むことになりメジャーに踊りでる。

しかし、売れ始めると同時に二人の考えに大きな相違がでて、鈴木康博はオフコースを脱退する。この原因として、オフコースをメジャーにした楽曲が小田和正に集中し、鈴木にはそのような楽曲を作れなかった事。バンドは小田が中心になって、それ以外の4人が実質的に平等扱いとなったことで、鈴木康博が気持ち的に隅に追いやられた感があったこと。もしこれが、リーダが小田(作曲)、サブリーダー鈴木(編曲)というイメージを前面に押し出したら違う流れになっていたのかもしれない。小田和正はそういった細かな配慮にかけていたのであろう。


 鈴木にとっての屈辱の深さは、小田和正はソロになって、さらに飛躍し音楽界の大御所になるくらいの活躍をした。一方、鈴木はソロでヒット曲などなくても脱退を後悔していないところに表れている。鈴木にとっては、オフコースの売上げが落ちても自分の職人的な要素をアルバムに反映したかったのであろう。とはいえ、メジャーで長く居続けられるほどの才能は自分にはないという事の言い訳のようにも聞こえなくはないが。

私は鈴木が抜けた後のオフコースを聴いていない。鈴木は小田の女性的な繊細さとは対称に、男の持つやるせなさを上手に表現していた。4人になったオフコースはこの対称性が影を潜め、モノトーンな色彩になった。しかし、それだけでない、1984年以降の日本はバブル経済に突入し、人々はより明るく享楽的な音楽を求めるようになった。そのため、人生の影を引きずるようなフォーク系は後方に追いやられ、オフコースもその一部に見なされていた。しかし、小田は90年代以降、その繊細さを人生の応援歌にまで昇華させ復活する。正直、見事とし言いようがない。


コメント

このブログの人気の投稿

高級ホテルから横浜港眺める ハイアットリージェンシー横浜

JR東海ツアーズのパックツアーで楽しむ:オリエンタルホテル栄

JR東海ツアーズのパックツアーを楽しむ:ユニゾイン大阪北浜

梅田の歓楽街近くのデザイナーズホテル:ホリックホテル

北九州空港での夜を過ごす:東横イン