ビートルズの伝記から考える:記憶の曖昧さと解釈の限界
ビートルズに関する伝記や評論は数多く存在し、半世紀も前の彼らの出来事や行動が多角的に分析されています。しかし、彼らのメンバーで存命なのはポールとリンゴだけになった今、ふと考えることがあります。半世紀も前の一瞬の出来事について尋ねられたとして、本人たちは果たしてどこまで覚えているだろうか、と。
私たちの日常でもそうですが、人の行動や感情は、ある意味で突発的なものです。その場の雰囲気で発した言動も少なくありません。それら一つひとつに、常に明確な論理性があるわけではないのです。
この話は抽象的に聞こえるかもしれませんが、私自身の経験に置き換えれば理解しやすいでしょう。小学生時代の出来事を全て詳細に覚えているわけではありません。野球や水泳の大会での苦しい練習や仲間との葛藤は記憶に残っていても、時間が経つにつれて、その時の感情とは異なる感情が残ることもあります。
このことをポール・マッカートニーに当てはめてみましょう。ジョン・レノンとの様々なやり取りも、今となっては懐かしい思い出かもしれません。伝記に書かれている感情は、当時の関係者の発言をもとに多角的に分析されたものですが、ポール自身にとって、伝記に記されているような深い思いからくる行動はごくわずかで、ほとんどはその場の流れによる出来事だったのではないでしょうか。さらに言えば、伝記で強調されている感情表現も、ある意味で誇張されており、今となってはそうした記憶や感情自体が薄れている可能性も十分に考えられます。
そう考えると、伝記などにおいて主人公の思いを深く洞察しようとすることは、ある意味で**「空(くう)」**を模索するようなものかもしれません。深く考えすぎても、必ずしも真実にはたどり着けない、とも言えるのではないでしょうか。
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