『男はつらいよ』に漂う偽善的な幸福感
(時間の有限性がもたらす感慨) 久しぶりに『男はつらいよ』を観た。初期の作品だったが、作中で寅さんが自分のことを「若造」と表現する場面があった。 しかし、渥美清さんはすでに30年以上前に亡くなっている。映像の中では生き生きと動き回っているものの、その作品に出演している俳優の多くはすでにこの世にいない。その事実を思うと、あらためて時間の流れの儚さを感じてしまう。 人は誰しも平等に年を重ねる。その事実を忘れてはならない。何もしなくても時間は過ぎていく。 映画はひとたび完成すれば半永久的に残り、そこには永遠に若々しい俳優たちの姿が映し出される。しかし現実では、時間は無情にも流れ続ける。気がつけば半世紀という歳月が過ぎ、多くの出演者がこの世を去っている。さらに一世紀も経てば、この作品に関わった人々は誰一人として存命ではないだろう。 その頃には作品の世界は、映像や書物などのアーカイブの中でのみ語られることになる。映像の中では最大限の魅力を放っていても、その本人はもはや地球上には存在しない。その対比に、不思議な感慨を覚えるのである。 (寅さんという理想化された人物像) さて、『男はつらいよ』で描かれる寅さんは、どこまでも人情味があり、周囲から愛される人気者として描かれている。この作品では庶民の温かさや人情の尊さが一貫して強調されている。 しかし、それはあくまで映画の世界だから成立する側面もあるのではないだろうか。 正直なところ、もし自分の親戚に寅さんのような人物がいたなら、私は付き合いに苦労すると思う。場合によっては、親戚であることを歓迎できないかもしれない。 現実社会では、人情だけで生活は成り立たない。生活費、仕事、責任、人間関係など、さまざまな問題と向き合わなければならない。そこには映画ほど温かくも単純でもない現実が存在している。 また、登場人物たちは総じて純粋で善良に描かれている。そこには理想化された共同体や人間関係があり、現実社会に存在する複雑な利害対立や価値観の衝突はあまり描かれない。 だからこそ私は、この作品にある種の「理想化された人情世界」を感じるのである。 (映画に潜む非日常の魅力) もっとも、映画やドラマ、小説とは本来そういうものなのかもしれない。 現実にはなかなか存在しない人物や状況だからこそ、人はそこに魅力を感じる。もし現実をそのまま描くだけであ...